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日本で初めて○○をやった男 浅見国一伝説

浅見国一氏が元・調教師としては初のJRA馬主に - 座布団が行司にクリーンヒット
浅見国一氏といえば元・調教師として数々の名馬を手がけ、元・調教師として初のJRA馬主にまでなったお方。
今回の馬主だけでなく現役調教師時代は色々なことで「日本初」をやってのけたアイディアマンだったらしい。
サラブレ』11月号「競馬はじめて物語」というコーナーで特集されていたので少し紹介してみようと思う。


1.ゴムの腹帯の導入
元・騎手で調教師も務めた保田隆芳氏がアメリカ遠征から持ち帰り、浅見厩舎のヤマピットに使ったのが初めて。
保田隆芳氏はアメリカから日本に「モンキー乗り」を持ち帰り、騎手の技術革新に貢献した人でもありましたね。
それまでは布や縄でできた腹帯を使うことが多かったが、ゴムだとズレにくく、馬もよく走るようになったとか。
武田文吾師とはその有効性について熱く激論を交わしたそうだ。後にゴムの腹帯が関西で主流となっても武田師は
絶対に使うことはなかったそうだ。ちなみに地方で広がったのも浅見師が大井に持ち込んだのがきっかけだそうだ。
2.当日輸送&前日輸送
当日輸送は昭和40年にクインヤマニンを京都→中京に輸送したのが最初。前日輸送はケイサンタ&ケイシュウを
栗東から小倉に輸送したのが初。それまではもっと早く入れないと「レースに間に合わなかったらどうする」という
考えだったのだろう。師曰く「装鞍所に90分前に入ればいいんだから」。昭和39年に高速道路ができてから、
全国に高速道路網が広がって行き、さらに成功例が多発して徐々に一般的な方法になっていったと思われる。
3.デビュー前2歳馬への障害練習
当時は育成施設が整っておらず育成はトレセンに来てから全部行っていたのでデビューまでに時間がかかっていた。

これをやると馬が丈夫になるんだ。障害を入れた角馬場に3歳(現2歳)馬を5、6頭おっ放すんだ。これはトレセンができる前、淀の競馬場でもやったよ。馬は普通の高さの障害を、ポンポンポンポン飛んで、ス〜ッと走り回るんだ。馬は喜んで、ある程度くらびれるまで走って、調教が終わったらちゃんとつかまるものなんだ。でも、これも皆に、「止めてくれ」って言われてたな。

4.逍遥馬道
現在のようなリフレッシュ効果を求めてではなく、起伏に富んだ逍遥馬道で調教することで馬を鍛えようとした。
要するに現在の坂路調教の礎となった。当初は認められず、引っかかったフリをして少しずつ調教していたそうだ。
5.調教時のハローがけ
それまでは1日1回だけで後半は蹄鉄の穴だらけになっていた。そこで浅見師と坂口正大調教師がJRAにかけあった。
6.大雪の日の午後乗り
これはやはり雪が解けないと危ないから。他にも調教コースの入り口を変更するなど様々なことをされたそうだ。
7.エアロフォーム
ヒントはスピードスケートや競輪選手が使用していたのを見たことから。空気抵抗を減らすために考えた。
当初トレセンの事務所で使用許可を求めたが難色を示されたため、競馬会本部の業務部に騎手服のサンプルを作って
送ってみると、業務部長から理事にまで話が上がり、「浅見が言うならいいんじゃないか」と許可が下りたそうだ。
(材質により少々値が張る為現在でも地方競馬では布製の騎手服を使う人は多く、大レースに限り使用したりする)
8.チェーンシャンク
馬具の一種。米国で購入し、同じものを作ってくれと日本の馬具屋に頼んだそうだ。……鉄砲伝来みたいな話だな。
9.馬の胃腸薬「ガスター」の使用
こちらもアメリカから持ち帰り、獣医に有効性の検査を依頼。実際に腹痛の持病持ちだったメジロワースに試した。
すると効果は覿面、日本で流行しだした。ストレスによる胃潰瘍で苦しむ競走馬が多いらしいですからね。


こうして見てみると「昔からこうしているから」という理由で続けられてきたことが、浅見師の手によって次々と
その常識が崩されていったように思えますね。アメリカから導入した技術もあれば自ら考え出したものもあり、
少し見方を変えることでいくらでも新しい方法は見つかるものなのかもしれません。


次のページは「トータリゼータ」「発馬機」「馬柱」などを始め、「年度代表馬」「フリーハンデ」「種牡馬録」
などの概念を産み出した白井新平氏の話でした。ちなみにトータリゼータシステムもスターティングゲートも
中央より大井が先に導入していたらしい。その辺の理由なども含め、詳しくは『サラブレ』11月号をご覧ください。